書籍・雑誌

2019年3月 4日 (月)

『聴かずに死ねるか!』蛇足的な注釈

 何を書くかよりも何を書かないかが重要--というのは、文筆の基本だと思っている。幹ばかりで枝葉のない文章もつまらないけれど、かといって枝葉ばかり伸びすぎると、肝心の幹が見えなくなってしまう。どの枝を伸ばしてどの枝を剪定するかが腕の見せどころなのではないか。

 『聴かずに死ねるか!』(リットーミュージック)は麻田さんとの共著だったため、必ずしもこの理想どおりにはいかなかったけれど、それでもそれなりに剪定はしてある。そのまま埋もれさせるのがもったいないような気もしてきたので(ん?)、あらためてここでご紹介しよう。注釈風にまとめてみたので、興味のある方は本を参照しながらお読みください。

●1章

グレン・グリーン・シンガーズ(P.22)

 「sing-out '65」で、麻田さんといっしょにツアーをした女性フォーク・グループ。このメンバーの一人に、後に大女優となったグレン・クローズがいた。グレン・クローズと言えば、映画『危険な情事』の恐ろしい演技が忘れられない。夢に見そうなコワい顔でグイグイと……。「sing-out '65」の当時は18歳くらいで、まだ世の男性諸氏を震え上がらせてはいなかったはずだが。

●2章

オールド・タウン・スクール・オブ・フォーク・ミュージック(P.31)

 麻田さんと岩沢幸矢さんがシカゴで通ったというギター・スクール。スティーブ・グッドマンやジョン・プラインもここでギターの弾き方を学んだそうなので、麻田さんたちも同窓生ということになる。

ジョン・ハモンド(P.41)

 グリニッチ・ビレッジで知り合ったブルース・シンガー。本文にもあるように、ジミ・ヘンドリックスやロビー・ロバートソンをギタリストに起用したこともある。ブルースの大御所、ジョン・リー・フッカーとも親しかったようだ。父親は、著名な音楽プロデューサーのジョン・ハモンド・ジュニアだという。

イージー・ヤング(P.41)

 フォークロア・センターを経営していたイージー・ヤングは、グリニッチ・ビレッジの顔役の一人で、麻田さんの前には、ニューヨークに出てきたばかりのボブ・ディランもお世話になっていたようだ。麻田さん曰く「イージー・ヤングは、当時もうディランのことをよく言ってなくて、ティム・バックレーを一生懸命推していた」とか。

●3章

ジャクソン・ブラウン(P.50)

 シカゴのライブで、最後にスティーブ・グッドマンもまじえて演奏した曲は、「Sweet Little Sixteen」の可能性が高いのではないか? 初期のリンドレーとのデュオ・ライブの音源を聴くと、オールディーズ・メドレーといった趣向で、この曲や「悲しき街角(Runaway)」などを一度に演奏していたりする。

ピート・ドレイク(P.52)

 72年のナッシュビル・レコーディングの際のペダル・スティール奏者。ロック・ギターでおなじみのトーキング・モジュレーターという特殊なエフェクタを考案したことでも知られる。このエフェクタを駆使したトーキング・スティールは、ドレイクの代名詞でもあった。

本田路津子(P.54)

 和製ジョーン・バエズとも称された美声の女性フォーク・シンガー。NHKテレビなどへの出演も多く、ウディ・ガスリーやディランの流れを汲む反体制的なフォーク・シンガー勢とは一線を画していた。麻田さんと同じ事務所に属し、いっしょにツアーを回ることも多く、かの有名な71年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーにもそろって出演している。

ベッツィ&クリス(P.56)

 日本で活躍したアメリカの女性フォーク・デュオ。最大のヒット曲「白い色は恋人の色」は、北山修作詞、加藤和彦作曲。麻田さんはこのデュオの司会兼オープニング・アクトを務めただけでなく、楽曲も提供していた。ソロ・アルバムに収めた「僕の中の君」も、もともとはベッツィ&クリスのために書いた曲だという。

●4章

デビッド・グリスマン・クインテット(P.63)

 本文にもあるとおり、76年の来日時にまだアルバムは出ていなかったけれど、グリスマンのソロ・アルバム『THE DAVID GRISMAN ROUNDER ALBUM』のレコーディングは、すでに完了していた。このアルバムは、来日メンバーのビル・キースも参加した、プレDGQとでも言うべき作品である(バイオリンはリチャード・グリーンではなくてバッサー・クレメンツ)。トリオレコードから出た日本盤は、日本ツアー直後の76年5月25日のリリースとなった。

ピート・グラント(P.79)

 ガイ・クラークのツアーに参加したピート・グラントは、カリフォルニアのセッションマン。エモンズのペダル・スティール・ギター(12弦ダブル・ネック)と、パーム・ペダルを3本付けた10弦ドブロをたずさえてきた。ちなみにガイ・クラークもカリフォルニアのドブロの工場で働いていた経験があり、ギターのリペアマンとしての実績もある。

アーレン・ロス(P.81)

 マッド・エイカーズの一員としてやってきたアーレン・ロスは、このときが初来日だったはず。ペダル・スティール・リックを駆使した、ユニークなギター奏法は日本でも話題となった。マッド・エイカーズの中心メンバーだったハッピー&アーティ・トラウムのアルバム『HARD TIMES IN THE COUNTRY』(Rounder 1975)でもロスのギターが大きくフィーチャーされており、その関係もあってツアーに参加することになったと思われる。

●5章

ローリング・ココナツ・レビュー(P.88)

 私の記憶する限りでは、開催当時の紹介文の表記は、みな「ココナッツ」だったはずだが、本書ではレイアウト校正の段階ですべて「ココナツ」に改められた。理由は定かではないが、2018年に初めて製品化された同コンサートのCDボックスのタイトルが『ローリング・ココナツ・レビュー・ジャパン・コンサート1977』だったことと、何らかの関連があるかもしれない。

Rollingcoconut ローリング・ココナッツの缶バッジ

ピーター・ローワン・バンド(P.90)

 バンジョー、ギター、マンドラ、フィドルというブルーグラスとしては異例の編成(なによりもベースが入っていない)になったのは、このイベントのためにメンバーを急遽集めたためだろう。ジョン・ヒックマン、ダン・クレアリーのカリフォルニア・コンビは、ピーター・ローワン、リチャード・グリーンとそれまでプレイした経験はなく、日本で初めて音を合わせたという。ピーター・ローワンのマンドラは、1920年代のモデルだと思われる希少なギブソンH-5だった。ブルーグラスでは通常はマンドリンを使用し、マンドラを弾くことはまずない。

レッド・ホット・ピッカーズ(P.90)

 ローリング・ココナッツ・レビューの翌年に開催されたピーター・ローワンの日本ツアーの際にバック・バンドが必要だということで、ちょうどスケジュールの空いていたニューヨークのラジカルなブルーグラス・ミュージシャン3人がブッキングされた。アンディ・スタットマン(マンドリン)、トニー・トリシュカ(バンジョー)、ロジャー・メイソン(ベース)という、いずれ劣らぬ鬼才たちだ。レッド・ホット・ピッカーズというバンド名は、その際に即席で付けられたその場限りのもの。このトリオも、ピーター・ローワンたちとは初顔合わせだった。フィドルのリチャード・グリーンが特別ゲスト扱いになったのは、キャリア等の格の違いが考慮されたからだろう。

●6章

ジーン・パーソンズ(P.100)

 元バーズで、ストリングベンダーの考案者としても知られるジーン・パーソンズは、カントリー・ガゼットやフライング・ブリトー・ブラザーズで来日が噂されたが、どちらもキャンセルとなった。パーソンズは「クジラを守れ」というステッカーを楽器のケースに張り、日本製品のボイコットも主張するという筋金入りの「エコな人」だったようなので、その信念が多少なりとも影響したのかもしれない。

スクエア(P.115)

 のちのT-スクエア。ユーミンのツアーに参加した当時のメンバーは、安藤正容(ギター)、伊東たけし(サックス、ウィンドシンセ)、久米大作(キーボード)、中村裕二(ベース)、青山純(ドラムス)、仙波清彦(パーカッション)。79年夏のOLIVEツアー、同年冬のマジカル・パンプキン・ツアーで、バックバンドを務めた。パントマイムをさせられたのは、マジカル・パンプキン・ツアーのとき。OLIVEツアーの東京公演では、本物の象も登場したというが……。

●7章

ピチカート・ファイヴ(P.132)

 田島貴男を迎えてレコーディングした最初のアルバムは『BELLISSIMA!』(1988年)。CBSソニー時代は、このあとに『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)と、リミックスによるベスト盤的な『月面軟着陸』(1990年:この頃プレジデント社のPC本の取材でメンバーの高浪慶太郎さんにインタビューをさせられ、何を書いていいのやら戸惑った経験がある^^;)を制作している。田島さんはコロムビア移籍を期にバンドを離れ、オリジナル・ラブに専念。このため、ニューヨークのサイコ・ナイトに出演したときのメンバーは、小西康陽、高浪慶太郎、野宮真貴の3人のはずだ。

●8章

マーク・ベノ(P.148)

 ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルのステージのサポート・ギタリストは奥沢明雄。ずいぶん以前からマーク・ベノの曲をカバーしていたベノ・フリークで、相性は抜群だった。リハーサルでは自作曲のコード進行を忘れていたベノにアドバイスをする一幕もあったとか。奥沢さんは佐野元春のステージでもギターを弾いていたが、こちらは当日のサウンド・チェックの時点で急遽客演が決まったのではないかと想像する。

ジョン・コーワン・バンド(P.148)

 ニュー・グラス・リバイバルでベース、ボーカルを担当していたジョン・コーワンのソロ・ユニット。コーワン以外の来日メンバーは、ノーム・ピクルニー(バンジョー)、シャド・コッブ(フィドル)、ティム・メイ(ギター)。マンドリンのウェイン・ベンソンと、ギターのジェフ・オートリーが日本に来られなくなったため、代わりにギターのティム・メイが急遽来日することになった。マンドリンのない変則のブルーグラス編成ではあったが、メイのパフォーマンスを間近で見られたのは望外の幸運だったかも(インタビューもできたし)。まだ若いノーム・ピクルニーがバンド全体をまとめているように見えたのも印象的だった。その後、ピクルニーはいまをときめくパンチ・ブラザーズに参加することになる。

佐野元春(P.150)

 ホーボー・キング・バンドを従えてのパフォーマンス。佐橋佳幸(ギター)、Kyon(キーボード)、井上富雄(ベース)など、凄腕ぞろいのメンバーだけに、さすがの安定感だった。この日はゲストの形で奥沢明雄も加わり、アコースティック・ギターを弾いた。

2019年2月19日 (火)

制作ノート番外編(麻田浩は伝説になったか?)

 『聴かずに死ねるか!』(リットーミュージック)の発刊から1ヵ月。これまで一部の方にしか知られていなかった麻田浩さんのすごさが、少しずつではあるけれど一般の音楽ファンにも認知されつつあるような手ごたえを感じている。

 制作に関わった一人として、とてもうれしく感じているのはもちろんだけれど、その一方でちょっとだけ気がかりなこともある。麻田さんの功績をたたえるネットの文章などに、「伝説のプロモーター」という枕詞のようなものがくっついている例を散見するようになったのだ。

 なんか違うんだよな、「伝説」っていうのはさ。妙に大げさな感じだし、それに麻田さんを伝説のカテゴリーに押し込めるのは、まだ早すぎるような気がする。いったい誰がこんなこと言い出したんだよ?

 ……なんて書くのもしらじらしくて、原因はたぶんアレだ。本の帯にも付いている宣伝文句「トム・ウェイツを招聘した伝説のプロモーターが明かす栄光と挫折の舞台裏!」。つまるところ、自分がすべての元凶だったってことだ^^;

 言い訳に聞こえるかもしれないけれど、私自身はこのキャッチ・コピーは書いていない。自分は関わらずにいちゃもんだけつけるのは、考えた方に申し訳ないとは思うのだが、それでも座り心地が悪いというか、おしりがこそばゆい気持ちはいかんともしがたい。

 「伝説」以上に気になるのが、「栄光と苦悩の舞台裏!」のくだりだ。「栄光」も「苦悩」も麻田さんのキャラクターにはそぐわない印象なのだよね。そりゃ人間だから、喜怒哀楽いろいろな感情が生まれるのは当然なのだろうけれど、傍目に見た麻田さんは、どんなときでも飄々としているようなイメージだから。まあ、面と向かって「苦悩したことないでしょ?」なんて言ったりしたら、さすがにムッとされるだろうとは思うけれど。

 「トム・ウェイツを招聘した」も、ビミョーと言えばビミョーなのだけれど、ここまで突っ込むとほとんど元の文章が残らなくなってしまうので、まあいいとして。

 ……なんてネチネチ書いているうちに、正直言って誰得?という気分になってきた。だって「伝説のプロモーター」と呼ばれても、きっと麻田さんは全然気にしないだろうから^^;(そういう細かいことにこだわらない人らしいというのは前にも書いた)。間接的ではあるにせよ、自分が原因でビミョーな言説が広まるのは阻止したいと気張ってみたものの、私以外のほとんどの方は、こんな些末な話、いちいち気にかけないわな~。

2019年2月12日 (火)

制作ノート番外編(ラ・カーニャの夜)

 すべてはラ・カーニャから始まったのかもしれない。いまを去ること10年前の2009年8月28日。下北沢のライブハウス、ラ・カーニャで、「麻田浩トムスキャビンを語る」というイベントが催された。企画したのは音楽ライターの川村恭子さん。トムスの最初の招聘アーティストとなったデビッド・グリスマン・クインテットの来日にまつわる話を、麻田さんの口から直接うかがおうという会で、私もたまたまその場に居合わせていた。

 

 このイベントはその後も何回か続いて、最終的には本にまとめられれば……というような話もあったかと記憶している。結局、書籍化の話は実現せず、その後10年を経て『聴かずに死ねるか!』が日の目を見たわけだ。あの頃は自分が関わることになろうとは、夢にも思っていなかった。運命っていうのは不思議だな。できれば近いうちにまた川村さんと飲みたいな……。

 

 さて、そんな因縁浅からぬラ・カーニャで、昨夜は『聴かずに死ねるか!』の出版を記念した「麻田浩トーク&サイン会」が開催された。前2回とは趣を変え、麻田さん以外にもトムス・キャビンの元スタッフのみなさんが集合して、当時の思い出を振り返るという。これは面白くなりそうだと思っていたら、案の定、これまで明らかにされていなかった暴露話が次々と飛び出してきて、会場は大盛り上がり。

 

 それにつけても、悲惨なはずの思い出を嬉々として語るみなさんの姿が印象的だった。例のアシュラさんのページも、ほんとはこういう感じにしたかったんだよな。ラ・カーニャのステージで話すくらいだったら、あの原稿だって削らなくてよかったんじゃないの……?

 

 アシュラさん自らがステージで公開した以上、もう隠す必要もないだろうから、そんなエピソードを1つ、ここに載せてしまおう。アシュラさんがツアー・マネージャーを任されて、地方に出発しようという日の朝のことだ。ツアーの費用を求めるアシュラさんに麻田さんはこう答えたという。「あ、ごめん。ねえんだよ。アシュラ払っといて」

 

 アルバイトの女子大生だった深瀬さんの「事務所の電話がしょっちゅう停まるのに驚いた。電話ってお金を払わないとほんとに停まるんだ」という証言も、インパクトがあった。とにかく、ほんとにお金のない会社だったようである。そんな悲惨な労働環境だったにもかかわらず、いまだに麻田さんの呼びかけに応じて馳せ参じるスタッフのみなさんは、すごいと思う。麻田さんの人間的な魅力もちろんだけれど、トムス・キャビンという組織そのものに抗しがたいパワーのようなものがあるのではなかろうか? かけがえのない思い出というのは、こういうものなのかもしれない。

 

Toms1

 

 

 

 ところで、この日も私は目立たないように隠れているつもりだったのだが、麻田さんにステージに呼び出されて、本の制作に関わる話をさせられてしまった。エンディングの「Ol'55」でも、なぜかマンドリンで伴奏(?)をする羽目になったし。ほんとに裏方が出しゃばって申し訳ない。……なんて言いつつ晒すけれど。

 

Toms2

 

 

 

 もう1枚、トムスのスタッフの皆様との記念写真も。
(写真はトムス・キャビンのオードリー木村さんがアップしていたものを使わせていただきました)

 

 「まだトムスは続けようと思っているので、みなさん見に来てください」と最後に熱く語った麻田さん。そう来なくっちゃ! これからのご活躍も楽しみにしておりまする。

2019年2月 4日 (月)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(終)

◆著者名について

 だらだらと書き連ねてきた制作ノートも、とりあえず今回で打ち止め。やはり最後に著者名のクレジットについてふれておいたほうがいいような気がする。麻田さんの自伝なのに、なんで私の名前が入っているか気になる方がいらっしゃるかもしれないし。

 最初に編集の坂口さんと二人で打ち合わせたときに「自伝でいきたい」と言われた話は、すでに書いた。そのときに、「じゃあクレジットはどうなるんでしょう?」と尋ねると、「麻田さんの単独名にしたい」と返された。明確にゴーストライターという言葉は出なかったけれど、早い話がそういうことだろう。

 予期せぬ話にポカーンとして、そのときはそのまま引き下がった(気も弱いのでね^^;)。それでもしょうがないのかといったんはあきらめかけたのだが、作業を進めているうちにやっぱりヘンだと思い直した。一人で悩んでいてもラチが明かないので、麻田さんに相談してみようか。

 おりよく2人きりになる機会があったので(カレーライスごちそうさまでした!)、「クレジットに私の名前も入れてもらいたいと思ってるんですよ」と切り出すやいなや、「そりゃそうだ。ぜったい言ったほうがいいよ」と麻田さん。やっぱり言ってもよかったんだ!

 この言葉に勇気をもらって、「私の名前も入れてもらえませんか」と交渉したところ、あっさり「そのつもりでいます」だって。え? いつのまにか状況が変わっている。もしかして最初から私の勘違いだったってことはないよな? あるいは麻田さんが裏で根回しをしてくださったとか……。

 真相はいまだにたしかめていない。こちらから尋ねることも、きっとないだろう。私の勘違いだったという結論が、いちばん平和でいいかもしれない。真相がどうあれ、麻田さんのあのひとことに対する感謝の気持ちは変わらないけれど。

 ともあれ、この段階では共著になるとは思っていなかった。よくある「編集・構成」あるいは「企画・構成」のようなクレジットで名前が入るものだとばかり思っていた。共著になることを知ったのは、表紙の見本が上がってきた12月3日の時点だ。その前に、前書きやプロフィルを書くように言われた時点で、気がついてしかるべきだったのかもしれないが、まったく予期していなかったもので……。

 この前書きも、てっきり麻田さんが書くものだとばかり思っていたら、「最初に客観的に麻田さんを紹介する文章がほしいから」ということで、急遽お鉢が回ってきた。お断りする理由もないので、ありがたく引き受けさせていただいたけれど、それなりに恐縮はしている。

 そんなわけで、共著になった理由は、結局よくわかっていないのだが、麻田さんをはじめとする関係者の皆様に気を使っていただいた結果ではないかと解釈している。ただひたすらにありがたい。

 結局、私の中では、ゴーストライター→編集者→著者と、三段跳びのステップアップがあったことになるが、多くの読者にとってはどうでもいい話のようにも思う。そんな些末なことより、麻田さんの本が出たという事実のほうが重要であるに違いない。

 トムス・キャビンのコンサートにはずいぶお世話になってきたから、この本を作る過程はとても楽しいものになった(たいへんなことも多かったけれど)。願わくは、この本を読んだ皆さんとも、この楽しさをわかちあえますように。

2019年2月 3日 (日)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(7)

◆証言をめぐる行き違い

 10月下旬の原稿整理のあとは、PDFによる校正、ゲラ刷りによる校正(これでほぼ校了)、さらにダメ押しのPDF校正があって、無事1月18日に出版の運びとなった。この間の経緯も書こうと思えばいろいろ書けるのだが、やや冗長にすぎるので割愛させていただく。

 以下は本文以外の制作に関わる話。

 私はレイアウトや写真の選定にはかかわっていないため詳細は不明ながら、表紙になったDGQのリハーサル風景(神田共立講堂)は得能通弘さんが撮影されたものだそうな。当初、麻田さんは「SING OUT」誌のパロディを表紙にするアイデアを持っていて、本文1ページめの口絵風の写真が、その名残だったりする(元ネタは16ページに掲載)。 「SING OUT」はデザイン的に優れた雑誌とは言い難いし、だいたんにトリミングされたDGQの表紙はとても印象的で素敵だしで、やはりこちらが正解だった気はする。

 巻頭、および本文中のミュージシャンの写真も、おおむね得能さんと桑本正士さんによるものだろう。個人的にお気に入りの釣りをするエイモス・ギャレットさんの写真は、桑本さんが撮られたもの。とにかく、ほとんどの写真が初めて見るものばかりで、これを掲載できたおかげで、本書の価値はグンと高まったと思う。

 トムスのプログラムやTシャツの写真をまとめたカラー・ページは、編集の坂口和樹さんのアイデア。本のデザインをトムスゆかりのマーチン荻沢さんにお願いしたのも坂口さんのはずだ。トムスのパンフレットにも通じる本書のデザインのテイストは、きっとトムス・ファンの心をくすぐるに違いない。この起用も大ヒットだったのではないかと思う。ちなみに荻沢さんは、本書P.229~230のアシュラさんの証言にも登場している。

 そのアシュラさんの証言や、バラカンさんとの対談も坂口さんの提案だったと思う。

 バラカンさんとの対談は、本書の中ではいちばん順調に進んだかもしれない。録音テープから起こしたほぼそのままで(話の流れをわかりやすくするために一部順番を入れ替えたところはあるものの)、校正の直しもほとんどなかった。せいぜいバラカンさんの指示に従って、ミュージシャン名のカタカナ表記を改めたくらいである。

 これに対して、アシュラさんの証言のほうはいろいろあった^^;

 最初にこの企画の話が出てきたときには、ツアーの裏話的なエピソード以外に、アシュラさんのフィルターを通した麻田浩像についてもいろいろうかがいたいと思っていた。評伝と違って自伝のスタイルだと、客観的な視点がどうしても不足しがちになる。そこで、長年にわたりトムスと深く関わってきたアシュラさんの証言を通して、麻田さんのアナザ・サイドに迫れたら面白いのではないかと考えたわけだ。

 実際に、興味深いお話はたくさん聴けたのだが、編集の坂口さんからこちらの意図がちゃんと伝わっていなかったようで、……というよりも、私と坂口さんの思惑がもともと違っていたせいかもしれないけれど、最初の原稿を読んだアシュラさんはずいぶん当惑されたようだ。結局、採用された原稿はアシュラさんが全面的に書き直したものになった^^; 私がこの事実を知ったのは、レイアウトが上がったあとの最後の校正の時点である。時すでに遅し……。

 ダメ出しを食らった当初の原稿では、周囲を巻き込みいろいろと迷惑をかけつつも、なぜか憎めない麻田さんの魅力的なキャラクターがくっきりと浮かび上がってきて、すごくよい内容だったと思うのだが。まあ、麻田さんに遠慮したアシュラさんの気持ちもわかるし、ここはいさぎよくあきらめるしかないのだろう。

 トムスの倒産に関しても、麻田さんとは別の視点でその経緯が述べられていて、いっしょに読めば、よりわかりやすかったのではないかと思う。たとえばトムスのどこに問題があったのかとか……。とはいえ、アシュラさんが書き直した原稿も、それはそれで充分に面白いのだけれどね。

2019年2月 2日 (土)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(6)

◆二正面作戦決行

 原稿整理の話の続き。

 敬体文から常体文へ変えるとはいえ、大幅な改変はしたくない。また、完全に著述風の文体にしてしまうのも気がとがめたので、ところどころ違和感のない程度に、話し言葉のニュアンスもとどめるようにした。

 これと並行して文章の校正も行なう。--というよりも、本来はこちらのほうがメインの作業だ。新しく追加になった箇所も多かったため、実際には校正というよりは校閲で、誤字・脱字のチェック、表記の揺らぎの統一はもちろん、論旨の不明瞭なところや、論理の矛盾などにも気を配りつつ、ファクト・チェックもまとめて片付けた。

 麻田さんの本で当のご本人に話をして(あるいは書いて)もらったのだから、これ以上の一次資料はないはずなのだが、誰しも記憶違いや勘違いはあるから油断はならない。麻田さんは当時の日記等を参照して話をされている様子でもなかったので、念のためになるべく二次資料や周辺資料もあたって事実確認をするようにはした。

 このファクト・チェックは、初稿の執筆時点でもそれなりにやってはいたのだが、麻田さんの追加分に関しては、短い期間で、それも文体の書き換えと同時にあわただしく進めたため、正直不安がないでも……。もっとも、綿密に校閲をしたつもりでいても、見落としが起きることはままあるのだけれどね^^;

 なにはともあれ、11月2日になんとか原稿整理を終えた。これでほっとひと息……とはまだいかない。本文以外の仕事もまだ残っているのだった。

 今回は編集業務の紹介に終始してしまった。もうちょっと興味の持てそうな話に戻して、あともう1、2回で終わります。たぶん。

2019年1月31日 (木)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(5)

◆文体を変えよ!

 5月末に初稿を書き上げた時点で、こちらの作業はすでに半ばを超えたかと思っていたのだけれど、現実はそう甘くなかった。即座に「文体がよくない」という指摘が、編集の坂口さんから戻ってきた。敬体文(ですます調)ではなくて、常体文(だ、である調)に変えたいと言う。

 たしかに初稿の文は敬体で書かれていた。麻田さんが話されたとおりに文字に起こした結果、自然にそうなった。最初に自伝でいくと決まったときに、「だったら麻田さんが話されたとおりに書きますよ」と念を押し、了解してもらったつもりでいたのだが、話が通じていなかったようだ。これには頭をかかえた。

 語りおろしっぽい文章を避けたいという編集サイドの思惑もわからないではなかったが、文体を変えてしまったら本来のディテールが失われてしまいかねない。常体文に書き直すとなれば、語尾だけ変えれば済むというわけにはいかず、文章全体の言い回しを調整しなければならないからだ。たいへんな作業になることも目に見えている。

 「敬体文の自伝はたくさんありますよ」といくつか反例も挙げてみたのだが、坂口さんも譲らず。結局、6月4日の打ち合わせの席で麻田さんに判断してもらおうということになった。

 だったら、判断の材料があったほうがいいだろう。そこで冒頭の何ページかを常体文に書き直したサンプルを作って持って行くことにした。いまにして思えば、このときに手抜きというか、できの悪い文章を作ればよかったのかもしれないが、やりだすとついつい本気になってしまうもので。はたして、「こっちがいいかなぁ」と麻田さんが選んだのは、書き直した常体文のほうだった。う~む……。

 当然ながら書き直すのは私の仕事である。とはいえ、その後坂口さんから書き直しの指示はなく、こちらも積極的にやる気はなく、しばらく様子を見ることに。まあ、元原稿が麻田さんのところに行っている間は手が付けられない、という事情もあったのだけれど。

 事態が大きく動いたのは10月もおしつまった頃だ。10月22日の時点で、麻田さんが加筆訂正した原稿が届く。この段階ではまだ敬体文のままだった。

 9月刊行の予定は1月に延期になっていたけれど、いずれにしても時間の余裕はあまりない。坂口さんからの指示は「原稿整理を」というだけだったので、そのままうやむやにしてもよかったのかもしれないけれど、やはり気になるものは気になる。「それで文体はどうしましょうか?」とおそるおそる尋ねると、「常体文にしましょう」という答えが返ってきた。あ~、結局そうなるのか~!

2019年1月25日 (金)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(4)

◆ポストプロダクションの実態

 インタビューの間は、基本的に麻田さんのターンと言っていい。こちらはたんに話を引き出す係にすぎない。それはそれで、ある程度の技術は必要であるにせよ。

 インタビューが終わったあとしばらくは、逆にこちらのターンで、録音テープ(正確にはICレコーダーのデジタル音声データ)を、なるべく忠実な形で文字に落とし(いろいろな考え方があるかとは思うが、これが私の流儀)、その素材を取捨選択して、ストーリーの流れに沿って並べていく作業になる。

 この過程で重要なのは、何を取り上げるかではなくて、むしろ何を切り捨てるかを判断することだったりする。また、同時多発的にいろいろなできごとが起きている場合には、時系列に沿って並べていくだけだとグチャグチャになりかねないので、すんなりと読めるように配置を工夫しなくてはならない。麻田さんは、ミュージシャン、音楽ライター、ツアー・マネージャー、映画の助監督、役者……といった役割を一度にこなしていた時期もあるため、それをすっきり収めるのには、かなり苦労した。

 これと並行して、本文全体の構成や章立て、章題、中見出しなども考える。章題は、麻田さんが大の車好きということで、「イグニッション」「バイパス」など自動車絡みの用語を並べてみることにした。このアイデアは、実は以前から温めていたものだった。最初に計画していた評伝も、ルート66をたどる麻田さんの旅の話で初めて、最後にまたルート66に戻ってくる構成にしようかと考えていたくらいだ。

 ちなみに私自身は自動車の知識はゼロに等しい。このためテクニカル・タームの選択が適切かどうか、まったく自信はなかったのだが、こちらの意図を知ってか知らずか、麻田さんは最後まで何もおっしゃらなかった。

 当初は2018年の9月には出版する計画だったため、5月末の時点で初稿を上げて編集の坂口さんに渡した。麻田さんのインタビュー終了の時点から、ほぼ1ヵ月半。その間にグッズの撮影や、アシュラさんへのインタビューや、麻田さんとバラカンさんの対談などもあったため、スケジュール的にはかなりきつかった^^;

 さて、ここからはふたたび麻田さんのターンで、この初稿をチェックして、足りない部分を加筆していただくことに。ところが、この時点で思いもよらなかった問題が出てきた。

 --というところで次回に続く。

2019年1月23日 (水)

丸ごと1冊ギブソン

 枻出版社のムック『Vitage Guitars 丸ごと1冊ギブソン』が届いたのでご紹介。

Eigibson

 ギターの写真はとてもきれいに撮れていると思う。私は、P.74~P.91のギターの解説を書かせていただいた。モデルで言うと、ファイヤーバード、ES-335、345、355、メロディメーカー、L6-S、RD、マローダー、ザ・ポールなど。

 個人的にもこのあたりのギターはけっこう持ってたんだよね~。64年のファイヤーバードIIIとか、70年のES-345とか、70年代のL6-Sとか。いまはみんな売ってしまったけれど。

 ついでに、ちまちました余談。L6-SとかL5-Sとかいうモデル名が以前から気になっている。L-5のソリッド・バージョンがL5-Sという位置づけのはずなので、本来ならL-5Sと表記すべきなんじゃないのかな、なんて……。

2019年1月22日 (火)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(3)

◆評伝ではなく自伝で

 最初の実務的な打ち合わせは、翌18年の1月23日。実はこの時点では、私は麻田さんの評伝を書くつもりでいた。ところが担当編集者に決まったリットーミュージックの坂口和樹さんは、自伝のスタイルにしたいとおっしゃる。ちなみに麻田さんはこのときまだ中国にいらっしゃったはずで、この打ち合わせには関わっていない。

 この展開は予想していなかったものの、第三者の書く評伝よりも麻田さんの自伝を読みたい人が多いだろうということは、容易に想像がつく。とにかく麻田さんの本を出すことが第一であると思い直し、評伝の企画は取り下げることにした。

 自伝となれば、私は書記に徹して、麻田さんの言葉を脚色なしにそのまま文字に起こすべきだろう。インタビューを元に本をまとめるという大枠は変わらないにしても、実際の作業は全く違ったものになる。現実には紆余曲折会あって、100%この方針のとおりにはいかなかったけれど、その理念自体はおおむね貫けたのではないかと思っている。

 麻田さんへのインタビューは都合3回実施した。それとは別にアシュラさんへの取材や、バラカンさんとの対談も行なった。この間の主な日程を下に整理しておこう。

2018年2月21日
 第1回インタビュー

4月10日
 第2回インタビュー

4月13日
 第3回インタビュー

4月20日
 パンフレット、Tシャツなどのグッズの撮影

4月26日
 伊藤あしゅらさんインタビュー

5月12日
 麻田さんとピーター・バラカンさんの対談

 2月21日は、本当は麻田さんも交えて、全体のコンセプトや今後の日程を話し合う最初の打ち合わせになるはずだったのだが、麻田さんが日にちを間違えて前日にリットーミュージックを訪れたため、急遽私抜きでの打ち合わせとなり、翌21日は前倒しでインタビューを行なうことになった^^; この日は少年時代の話から始まって、トムスを立ち上げるまでを一気に。

 4月10日は、招聘アーティストの話を中心に、トムスの立ち上げから倒産まで。そして13日はトムス以降現在に至るまでの活躍について。

 こうしておよそ9時間ほどの録音テープができ上った。この音源をどのように料理していったかについては、次回にまたあらためて。

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