書籍・雑誌

2020年8月 1日 (土)

URCレコード読本

 発売日が遅れに遅れ、一時はもう出ないんじゃないかと危惧した『URCレコード読本』(シンコーミュージック)が、ついに発売されることとなった。めでたい。

Urcbook

 日本のインディーズ・レーベルの草分けと称されるURCレコードの軌跡を、スタッフの一人だった小倉エージさんの書下ろし原稿と、ゆかりのミュージシャンの証言でまとめた労作である。URCも発足からすでに50年だそうで、あらためてふり返るにはよい機会だったのではないかと思う。

 まだパラパラと眺めた程度だが、やはり貴重なのは、高石ともや、中川五郎、中川イサト、金延幸子、斉藤哲夫、大塚まさじ、三上寛、なぎら健壱、古川豪--といった所属アーティストのみなさんへのインタビューだろう。これからじっくり読まなくては。

 私も、やぎたこのお二人へのインタビューと、「後世に残したいURCの50曲」のレビューの一部を書かせていただいている。

 やぎたこインタビューではさまざまなお話をうかがったのだが、紙数の都合で、アルバム『WE SHALL OVER COME』の話題に絞って紹介させていただいた。また機会があればそれ以外の部分も掘り下げてみたいものだ。

 内幕話をもう少し。「後世に残したいURCの50曲」は、最初に候補曲を10曲選び、編集部がその候補曲を元にほかの書き手のみなさんと調整をしてレビューを割り振るという段取りだった(よくある話です)。

 だとすれば、候補曲がほかの方々と競合しまくるのは得策ではない。そこで定番と思われる曲と、少しひねった曲とが半々の候補リストを作ることにした。とはいえ、書いてみたい候補曲は10曲にはとてもおさまりきらない。こちら立てればあちらが立たず……。悩みに悩んだ末に決まった候補リストは以下のようなものだった。

  鉱夫の祈り 高田渡
  腰まで泥まみれ 中川五郎
  伝道 加川良
  夏なんです はっぴいえんど
  まちは裸ですわりこんでいる 友部正人
  サーカスにはピエロが ディランⅡ
  追放の歌 休みの国
  築地の唄 野沢享司
  満員の木 西岡たかし
  ジャンジャン町ぶるうす 五つの赤い風船'75

 この中から最終的にOKが出たのは、「まちは裸ですわりこんでいる」「築地の唄」「満員の木」の3曲だった。どれも思い入れのある曲なので、結果的にはよかったのではないかと思う。届いた本を読みながら、あれとあれとあれが競合してたのか……と確認するのも、また楽しからずや……。

2020年5月10日 (日)

母親の蔵書

 私の父親が本を読んでいるところは見たことがなかった。親に隠れて暗がりで小説を読んだために目を悪くした、という話を聞いたことがあるから、若い頃はそれなりに読んではいたのだろう。押川春浪、戸川幸夫などが好みだったそうな。

 母親のほうは、歳をとってからもよく本を読んでいた。読んだ本はほとんど始末してしまったようで、遺品を整理したときに出てきたのは数冊だけだった。履き古した足袋は、柳行李にあふれるほどいっぱいとってあったというのに……。

 残っていた本のほとんどは、戦後まもなくに出版されたもので、苦しい時代を反映してか装丁はかなり粗末な印象だ。試みに年代順に並べてみよう。

沙翁全集1 ハムレット(シェークスピヤ著 坪内逍遥訳 早稲田大学出版部)

Shakespeare

 坪内逍遥訳の『ハムレット』である。残念ながら初版ではなく、昭和4年発行の24版だが。戦前の本ということで、装丁はなかなかに豪華。カラーを含む口絵や、木版彫りだという挿絵も多数挿入されている。沙翁全集は、もう1冊、『アントニーとクレオパトラ』もある。これが全40巻そろっていたらねぇ……。

歯車(芥川龍之介 文藝春秋新社)

Akutagawa

 芥川龍之介の短編集。「歯車」のほか、「或阿呆の一生」「河童」「藪の中」など8編を収録している。戦後の復興のさなかと言える昭和22年刊。かなり素朴な印象の装丁だ。

太宰治作品集 第5巻 斜陽(太宰治 創元社)

Dazai

 昭和26年刊。一応ハードカバーながら、戦後の旧家の没落を描いた作品の内容に合わせたかのような、たそがれ気味の外観だ。紙の質も悪い。

現代世界文学全集20 嘔吐・他人の血(サルトル、ボーヴォワール著 佐藤朔、白井浩司訳 新潮社)

Sartre

 この本が蔵書にあったのは意外だった。海外文学を読むような人だとは思っていなかったので。昭和28年の初版。この時期までくると、装丁の質もかなり戻ってきているような。

漱石全集 第5巻 虞美人草(夏目漱石 岩波書店)

Soseki

 昭和36年の第6刷。初版も「もう戦後ではない」の昭和31年。布製のカバーがなかなかオシャレだ。

2020年4月17日 (金)

音楽を文章にするということ

 個人的な理由で、いろいろ考えさせられる本だった。『ページをめくるとジャズが聞こえる』(村井康司著 シンコーミュージック・エンタテイメント)。

Murai

 「文学の中のジャズ」をテーマに、音楽について言及した小説や、評論、研究書など、さまざまな本を紹介している。「I」「II」「III」の三部構成で、「I」は主に小説や戯曲の中に出てくる音楽の話。「II」は著者がさまざまな媒体に発表してきた書評をまとめたもの。「III」は著名なジャズ評論家の著作の紹介など。

 曲がりなりにも音楽ライターを名乗っている関係で、音楽を文章で語ることの難しさ--というか、限界は常に感じ、そして悩んでいる。本書に引用されている和田誠さんの言葉にもあるように、「音楽に関しては活字で表現するのはまず不可能」なのだから。

 そういう意味で圧倒されたのが、「I」の村上春樹さんと和田誠さんの項だった。お二人とも、音楽に対する見識、感性、それを表現する文章力が並外れている! それを見出してくる著者の村井さんの眼力もすごい。いつかこういう領域に近づけたらいいなぁと本気で思う。正直、もうあまり時間は残されていないのだけれど。

 「III」では、ジャズ史に関する著作の紹介が興味深かった。野川香文さんの『ジャズ音楽の鑑賞』(昭和23年刊)は、浅学にして未読だったのだが、ミンストレル芸人やスコットランド民謡の話から始まるジャズ史というくだりを読んで、こんな先達がいらっしゃったのかと感動してしまった。

 最後にもうひとつ個人的な感想。192ページまで読み進んだところで、いきなり自分の名前が出てきたのには、心底驚いた。まったく予期していなかったもので。何を隠そう、麻田浩さんとの共著『聴かずに死ねるか!』の書評を載せていただいているのだった。最初にパラパラと目次をめくったときには、まったく気がつかなかった^^;

2020年2月15日 (土)

アコギブック50

 『アコースティック・ギター・ブック50』(シンコーミュージック)。全体にモアレのように見えるのは、地に敷いた材の木目の写真のようだ。最初にみたときはドキッとした^^;

Agb50

 私はD-28の小特集の「D-28が聴ける名盤」の部分を書かせていただいた。

 当初の依頼は、「D-28が聴ける名盤を8枚選んで1400字以内で紹介してほしい」というものだった。単純に8で割ると1枚175字か~。それもマクラもまとめもなしで……。けっこうキツキツだなと思ったら、さらに「日本人のプレイヤーにも言及してほしい」とも言われてしまった。ふ~む。

 そもそもの話として、日本人のギタリストでD-28とイメージがシンクロする人って、意外と少ない気がする。もちろんブルーグラス方面ならたくさんいらっしゃるのだけれど、編集部が求めているのはそういう人たちではなさそうだし。

 ……となると、パッと思いつくのは小室等さんのD-28S、加藤和彦さんのハンク・ウィリアムスが所有していたというヘリンボーン・マーティン、ミスチルの桜井和寿さんのレスター・フラット風ラージ・ピックガードのモデルあたり。でも、D-28の音が際立つ名盤という観点からすると、どれも少し違う気が。

 石川鷹彦さん、安田裕美さん、吉川忠英さんといったセッション・ギタリストのみなさんも、当然のようにD-28を使っていらっしゃるけれど、必ずしもメイン楽器とは言えないし。それに、このアルバムのこの曲で弾いている……というデータも少ない(実はそういうセッション・ギタリストを対象にした取材のアイデアも温めてはいるのだけれど、全然企画が通らなくて……)。

 結局、独断と偏見で英米盤から8枚選び、日本人はちらっと名前を挙げる程度でお茶を濁してしまった。その後、編集部のほうで2枚追加し、原稿も補足してくださったようだ。もし私が選んだら、加藤和彦さんのアルバムは和幸の『ひっぴいえんど』あたりにしたかな~?

2020年1月 9日 (木)

ミュージック・マガジンからカントリー・ミュージック

 宇田和弘さんの監修によるレコード・コレクターズ増刊『カントリー・ミュージック』(ミュージック・マガジン)。なにより、あのミュージック・マガジンからカントリーの本が出たという事実がすごい。

Country

 オーソドックスなディスク・ガイド本で、コンパクトな判型ながら、全ページ4色カラー(念のために書き添えておくと、フルカラーということ)。執筆陣がまた豪華で、宇田さんはもちろんのこと、赤尾美香、五十嵐正、大江田信、岡村詩野、小川真一、北中正和、白井英一郎、能地佑子、萩原健太……etc.という、ものごっついみなさんばかりなのだった。そんな大御所の方々に混じって、私もちょこっとだけ書かせていただきました^^;

 

2019年11月21日 (木)

丸ごと1冊ギブソン・アコースティック

 『Vitage Guitars 丸ごと1冊ギブソン・アコースティック』(枻出版社)の見本が届いたのでご紹介。

Vintagegibson

 とっても写真がきれいで、貴重なビンテージ・ギターがこれでもかとばかり載っていて、なかなかすごい! 自分が関わっていてこういうことを言うのもナニだけれど、これは永久保存版という感じ。……。

 私は、「ビンテージ・ギター・カタログ」のダブ、ハミングバード、L-0~L-4、L-75あたりを書かせていただいた。

 あとはシェリル・クロウさんの記事も書いたんだけど、どういうわけかクレジットが大塚康一さんになっている。びっくり……。たんなるケアレス・ミスだろうとは思うけれど、なんだか大塚さんにも申し訳ないような。原稿料はちゃんともらえるのかしら?^^;

2019年3月 4日 (月)

『聴かずに死ねるか!』蛇足的な注釈

 何を書くかよりも何を書かないかが重要--というのは、文筆の基本だと思っている。幹ばかりで枝葉のない文章もつまらないけれど、かといって枝葉ばかり伸びすぎると、肝心の幹が見えなくなってしまう。どの枝を伸ばしてどの枝を剪定するかが腕の見せどころなのではないか。

 『聴かずに死ねるか!』(リットーミュージック)は麻田さんとの共著だったため、必ずしもこの理想どおりにはいかなかったけれど、それでもそれなりに剪定はしてある。そのまま埋もれさせるのがもったいないような気もしてきたので(ん?)、あらためてここでご紹介しよう。注釈風にまとめてみたので、興味のある方は本を参照しながらお読みください。

●1章

グレン・グリーン・シンガーズ(P.22)

 「sing-out '65」で、麻田さんといっしょにツアーをした女性フォーク・グループ。このメンバーの一人に、後に大女優となったグレン・クローズがいた。グレン・クローズと言えば、映画『危険な情事』の恐ろしい演技が忘れられない。夢に見そうなコワい顔でグイグイと……。「sing-out '65」の当時は18歳くらいで、まだ世の男性諸氏を震え上がらせてはいなかったはずだが。

●2章

オールド・タウン・スクール・オブ・フォーク・ミュージック(P.31)

 麻田さんと岩沢幸矢さんがシカゴで通ったというギター・スクール。スティーブ・グッドマンやジョン・プラインもここでギターの弾き方を学んだそうなので、麻田さんたちも同窓生ということになる。

ジョン・ハモンド(P.41)

 グリニッチ・ビレッジで知り合ったブルース・シンガー。本文にもあるように、ジミ・ヘンドリックスやロビー・ロバートソンをギタリストに起用したこともある。ブルースの大御所、ジョン・リー・フッカーとも親しかったようだ。父親は、著名な音楽プロデューサーのジョン・ハモンド・ジュニアだという。

イージー・ヤング(P.41)

 フォークロア・センターを経営していたイージー・ヤングは、グリニッチ・ビレッジの顔役の一人で、麻田さんの前には、ニューヨークに出てきたばかりのボブ・ディランもお世話になっていたようだ。麻田さん曰く「イージー・ヤングは、当時もうディランのことをよく言ってなくて、ティム・バックレーを一生懸命推していた」とか。

●3章

ジャクソン・ブラウン(P.50)

 シカゴのライブで、最後にスティーブ・グッドマンもまじえて演奏した曲は、「Sweet Little Sixteen」の可能性が高いのではないか? 初期のリンドレーとのデュオ・ライブの音源を聴くと、オールディーズ・メドレーといった趣向で、この曲や「悲しき街角(Runaway)」などを一度に演奏していたりする。

ピート・ドレイク(P.52)

 72年のナッシュビル・レコーディングの際のペダル・スティール奏者。ロック・ギターでおなじみのトーキング・モジュレーターという特殊なエフェクタを考案したことでも知られる。このエフェクタを駆使したトーキング・スティールは、ドレイクの代名詞でもあった。

本田路津子(P.54)

 和製ジョーン・バエズとも称された美声の女性フォーク・シンガー。NHKテレビなどへの出演も多く、ウディ・ガスリーやディランの流れを汲む反体制的なフォーク・シンガー勢とは一線を画していた。麻田さんと同じ事務所に属し、いっしょにツアーを回ることも多く、かの有名な71年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーにもそろって出演している。

ベッツィ&クリス(P.56)

 日本で活躍したアメリカの女性フォーク・デュオ。最大のヒット曲「白い色は恋人の色」は、北山修作詞、加藤和彦作曲。麻田さんはこのデュオの司会兼オープニング・アクトを務めただけでなく、楽曲も提供していた。ソロ・アルバムに収めた「僕の中の君」も、もともとはベッツィ&クリスのために書いた曲だという。

●4章

デビッド・グリスマン・クインテット(P.63)

 本文にもあるとおり、76年の来日時にまだアルバムは出ていなかったけれど、グリスマンのソロ・アルバム『THE DAVID GRISMAN ROUNDER ALBUM』のレコーディングは、すでに完了していた。このアルバムは、来日メンバーのビル・キースも参加した、プレDGQとでも言うべき作品である(バイオリンはリチャード・グリーンではなくてバッサー・クレメンツ)。トリオレコードから出た日本盤は、日本ツアー直後の76年5月25日のリリースとなった。

ピート・グラント(P.79)

 ガイ・クラークのツアーに参加したピート・グラントは、カリフォルニアのセッションマン。エモンズのペダル・スティール・ギター(12弦ダブル・ネック)と、パーム・ペダルを3本付けた10弦ドブロをたずさえてきた。ちなみにガイ・クラークもカリフォルニアのドブロの工場で働いていた経験があり、ギターのリペアマンとしての実績もある。

アーレン・ロス(P.81)

 マッド・エイカーズの一員としてやってきたアーレン・ロスは、このときが初来日だったはず。ペダル・スティール・リックを駆使した、ユニークなギター奏法は日本でも話題となった。マッド・エイカーズの中心メンバーだったハッピー&アーティ・トラウムのアルバム『HARD TIMES IN THE COUNTRY』(Rounder 1975)でもロスのギターが大きくフィーチャーされており、その関係もあってツアーに参加することになったと思われる。

●5章

ローリング・ココナツ・レビュー(P.88)

 私の記憶する限りでは、開催当時の紹介文の表記は、みな「ココナッツ」だったはずだが、本書ではレイアウト校正の段階ですべて「ココナツ」に改められた。理由は定かではないが、2018年に初めて製品化された同コンサートのCDボックスのタイトルが『ローリング・ココナツ・レビュー・ジャパン・コンサート1977』だったことと、何らかの関連があるかもしれない。

Rollingcoconut ローリング・ココナッツの缶バッジ

ピーター・ローワン・バンド(P.90)

 バンジョー、ギター、マンドラ、フィドルというブルーグラスとしては異例の編成(なによりもベースが入っていない)になったのは、このイベントのためにメンバーを急遽集めたためだろう。ジョン・ヒックマン、ダン・クレアリーのカリフォルニア・コンビは、ピーター・ローワン、リチャード・グリーンとそれまでプレイした経験はなく、日本で初めて音を合わせたという。ピーター・ローワンのマンドラは、1920年代のモデルだと思われる希少なギブソンH-5だった。ブルーグラスでは通常はマンドリンを使用し、マンドラを弾くことはまずない。

レッド・ホット・ピッカーズ(P.90)

 ローリング・ココナッツ・レビューの翌年に開催されたピーター・ローワンの日本ツアーの際にバック・バンドが必要だということで、ちょうどスケジュールの空いていたニューヨークのラジカルなブルーグラス・ミュージシャン3人がブッキングされた。アンディ・スタットマン(マンドリン)、トニー・トリシュカ(バンジョー)、ロジャー・メイソン(ベース)という、いずれ劣らぬ鬼才たちだ。レッド・ホット・ピッカーズというバンド名は、その際に即席で付けられたその場限りのもの。このトリオも、ピーター・ローワンたちとは初顔合わせだった。フィドルのリチャード・グリーンが特別ゲスト扱いになったのは、キャリア等の格の違いが考慮されたからだろう。

●6章

ジーン・パーソンズ(P.100)

 元バーズで、ストリングベンダーの考案者としても知られるジーン・パーソンズは、カントリー・ガゼットやフライング・ブリトー・ブラザーズで来日が噂されたが、どちらもキャンセルとなった。パーソンズは「クジラを守れ」というステッカーを楽器のケースに張り、日本製品のボイコットも主張するという筋金入りの「エコな人」だったようなので、その信念が多少なりとも影響したのかもしれない。

スクエア(P.115)

 のちのT-スクエア。ユーミンのツアーに参加した当時のメンバーは、安藤正容(ギター)、伊東たけし(サックス、ウィンドシンセ)、久米大作(キーボード)、中村裕二(ベース)、青山純(ドラムス)、仙波清彦(パーカッション)。79年夏のOLIVEツアー、同年冬のマジカル・パンプキン・ツアーで、バックバンドを務めた。パントマイムをさせられたのは、マジカル・パンプキン・ツアーのとき。OLIVEツアーの東京公演では、本物の象も登場したというが……。

●7章

ピチカート・ファイヴ(P.132)

 田島貴男を迎えてレコーディングした最初のアルバムは『BELLISSIMA!』(1988年)。CBSソニー時代は、このあとに『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)と、リミックスによるベスト盤的な『月面軟着陸』(1990年:この頃プレジデント社のPC本の取材でメンバーの高浪慶太郎さんにインタビューをさせられ、何を書いていいのやら戸惑った経験がある^^;)を制作している。田島さんはコロムビア移籍を期にバンドを離れ、オリジナル・ラブに専念。このため、ニューヨークのサイコ・ナイトに出演したときのメンバーは、小西康陽、高浪慶太郎、野宮真貴の3人のはずだ。

●8章

マーク・ベノ(P.148)

 ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルのステージのサポート・ギタリストは奥沢明雄。ずいぶん以前からマーク・ベノの曲をカバーしていたベノ・フリークで、相性は抜群だった。リハーサルでは自作曲のコード進行を忘れていたベノにアドバイスをする一幕もあったとか。奥沢さんは佐野元春のステージでもギターを弾いていたが、こちらは当日のサウンド・チェックの時点で急遽客演が決まったのではないかと想像する。

ジョン・コーワン・バンド(P.148)

 ニュー・グラス・リバイバルでベース、ボーカルを担当していたジョン・コーワンのソロ・ユニット。コーワン以外の来日メンバーは、ノーム・ピクルニー(バンジョー)、シャド・コッブ(フィドル)、ティム・メイ(ギター)。マンドリンのウェイン・ベンソンと、ギターのジェフ・オートリーが日本に来られなくなったため、代わりにギターのティム・メイが急遽来日することになった。マンドリンのない変則のブルーグラス編成ではあったが、メイのパフォーマンスを間近で見られたのは望外の幸運だったかも(インタビューもできたし)。まだ若いノーム・ピクルニーがバンド全体をまとめているように見えたのも印象的だった。その後、ピクルニーはいまをときめくパンチ・ブラザーズに参加することになる。

佐野元春(P.150)

 ホーボー・キング・バンドを従えてのパフォーマンス。佐橋佳幸(ギター)、Kyon(キーボード)、井上富雄(ベース)など、凄腕ぞろいのメンバーだけに、さすがの安定感だった。この日はゲストの形で奥沢明雄も加わり、アコースティック・ギターを弾いた。

2019年2月19日 (火)

制作ノート番外編(麻田浩は伝説になったか?)

 『聴かずに死ねるか!』(リットーミュージック)の発刊から1ヵ月。これまで一部の方にしか知られていなかった麻田浩さんのすごさが、少しずつではあるけれど一般の音楽ファンにも認知されつつあるような手ごたえを感じている。

 制作に関わった一人として、とてもうれしく感じているのはもちろんだけれど、その一方でちょっとだけ気がかりなこともある。麻田さんの功績をたたえるネットの文章などに、「伝説のプロモーター」という枕詞のようなものがくっついている例を散見するようになったのだ。

 なんか違うんだよな、「伝説」っていうのはさ。妙に大げさな感じだし、それに麻田さんを伝説のカテゴリーに押し込めるのは、まだ早すぎるような気がする。いったい誰がこんなこと言い出したんだよ?

 ……なんて書くのもしらじらしくて、原因はたぶんアレだ。本の帯にも付いている宣伝文句「トム・ウェイツを招聘した伝説のプロモーターが明かす栄光と挫折の舞台裏!」。つまるところ、自分がすべての元凶だったってことだ^^;

 言い訳に聞こえるかもしれないけれど、私自身はこのキャッチ・コピーは書いていない。自分は関わらずにいちゃもんだけつけるのは、考えた方に申し訳ないとは思うのだが、それでも座り心地が悪いというか、おしりがこそばゆい気持ちはいかんともしがたい。

 「伝説」以上に気になるのが、「栄光と苦悩の舞台裏!」のくだりだ。「栄光」も「苦悩」も麻田さんのキャラクターにはそぐわない印象なのだよね。そりゃ人間だから、喜怒哀楽いろいろな感情が生まれるのは当然なのだろうけれど、傍目に見た麻田さんは、どんなときでも飄々としているようなイメージだから。まあ、面と向かって「苦悩したことないでしょ?」なんて言ったりしたら、さすがにムッとされるだろうとは思うけれど。

 「トム・ウェイツを招聘した」も、ビミョーと言えばビミョーなのだけれど、ここまで突っ込むとほとんど元の文章が残らなくなってしまうので、まあいいとして。

 ……なんてネチネチ書いているうちに、正直言って誰得?という気分になってきた。だって「伝説のプロモーター」と呼ばれても、きっと麻田さんは全然気にしないだろうから^^;(そういう細かいことにこだわらない人らしいというのは前にも書いた)。間接的ではあるにせよ、自分が原因でビミョーな言説が広まるのは阻止したいと気張ってみたものの、私以外のほとんどの方は、こんな些末な話、いちいち気にかけないわな~。

2019年2月12日 (火)

制作ノート番外編(ラ・カーニャの夜)

 すべてはラ・カーニャから始まったのかもしれない。いまを去ること10年前の2009年8月28日。下北沢のライブハウス、ラ・カーニャで、「麻田浩トムスキャビンを語る」というイベントが催された。企画したのは音楽ライターの川村恭子さん。トムスの最初の招聘アーティストとなったデビッド・グリスマン・クインテットの来日にまつわる話を、麻田さんの口から直接うかがおうという会で、私もたまたまその場に居合わせていた。

 

 このイベントはその後も何回か続いて、最終的には本にまとめられれば……というような話もあったかと記憶している。結局、書籍化の話は実現せず、その後10年を経て『聴かずに死ねるか!』が日の目を見たわけだ。あの頃は自分が関わることになろうとは、夢にも思っていなかった。運命っていうのは不思議だな。できれば近いうちにまた川村さんと飲みたいな……。

 

 さて、そんな因縁浅からぬラ・カーニャで、昨夜は『聴かずに死ねるか!』の出版を記念した「麻田浩トーク&サイン会」が開催された。前2回とは趣を変え、麻田さん以外にもトムス・キャビンの元スタッフのみなさんが集合して、当時の思い出を振り返るという。これは面白くなりそうだと思っていたら、案の定、これまで明らかにされていなかった暴露話が次々と飛び出してきて、会場は大盛り上がり。

 

 それにつけても、悲惨なはずの思い出を嬉々として語るみなさんの姿が印象的だった。例のアシュラさんのページも、ほんとはこういう感じにしたかったんだよな。ラ・カーニャのステージで話すくらいだったら、あの原稿だって削らなくてよかったんじゃないの……?

 

 アシュラさん自らがステージで公開した以上、もう隠す必要もないだろうから、そんなエピソードを1つ、ここに載せてしまおう。アシュラさんがツアー・マネージャーを任されて、地方に出発しようという日の朝のことだ。ツアーの費用を求めるアシュラさんに麻田さんはこう答えたという。「あ、ごめん。ねえんだよ。アシュラ払っといて」

 

 アルバイトの女子大生だった深瀬さんの「事務所の電話がしょっちゅう停まるのに驚いた。電話ってお金を払わないとほんとに停まるんだ」という証言も、インパクトがあった。とにかく、ほんとにお金のない会社だったようである。そんな悲惨な労働環境だったにもかかわらず、いまだに麻田さんの呼びかけに応じて馳せ参じるスタッフのみなさんは、すごいと思う。麻田さんの人間的な魅力もちろんだけれど、トムス・キャビンという組織そのものに抗しがたいパワーのようなものがあるのではなかろうか? かけがえのない思い出というのは、こういうものなのかもしれない。

 

Toms1

 

 

 

 ところで、この日も私は目立たないように隠れているつもりだったのだが、麻田さんにステージに呼び出されて、本の制作に関わる話をさせられてしまった。エンディングの「Ol'55」でも、なぜかマンドリンで伴奏(?)をする羽目になったし。ほんとに裏方が出しゃばって申し訳ない。……なんて言いつつ晒すけれど。

 

Toms2

 

 

 

 もう1枚、トムスのスタッフの皆様との記念写真も。
(写真はトムス・キャビンのオードリー木村さんがアップしていたものを使わせていただきました)

 

 「まだトムスは続けようと思っているので、みなさん見に来てください」と最後に熱く語った麻田さん。そう来なくっちゃ! これからのご活躍も楽しみにしておりまする。

2019年2月 4日 (月)

『聴かずに死ねるか!』制作ノート(終)

◆著者名について

 だらだらと書き連ねてきた制作ノートも、とりあえず今回で打ち止め。やはり最後に著者名のクレジットについてふれておいたほうがいいような気がする。麻田さんの自伝なのに、なんで私の名前が入っているか気になる方がいらっしゃるかもしれないし。

 最初に編集の坂口さんと二人で打ち合わせたときに「自伝でいきたい」と言われた話は、すでに書いた。そのときに、「じゃあクレジットはどうなるんでしょう?」と尋ねると、「麻田さんの単独名にしたい」と返された。明確にゴーストライターという言葉は出なかったけれど、早い話がそういうことだろう。

 予期せぬ話にポカーンとして、そのときはそのまま引き下がった(気も弱いのでね^^;)。それでもしょうがないのかといったんはあきらめかけたのだが、作業を進めているうちにやっぱりヘンだと思い直した。一人で悩んでいてもラチが明かないので、麻田さんに相談してみようか。

 おりよく2人きりになる機会があったので(カレーライスごちそうさまでした!)、「クレジットに私の名前も入れてもらいたいと思ってるんですよ」と切り出すやいなや、「そりゃそうだ。ぜったい言ったほうがいいよ」と麻田さん。やっぱり言ってもよかったんだ!

 この言葉に勇気をもらって、「私の名前も入れてもらえませんか」と交渉したところ、あっさり「そのつもりでいます」だって。え? いつのまにか状況が変わっている。もしかして最初から私の勘違いだったってことはないよな? あるいは麻田さんが裏で根回しをしてくださったとか……。

 真相はいまだにたしかめていない。こちらから尋ねることも、きっとないだろう。私の勘違いだったという結論が、いちばん平和でいいかもしれない。真相がどうあれ、麻田さんのあのひとことに対する感謝の気持ちは変わらないけれど。

 ともあれ、この段階では共著になるとは思っていなかった。よくある「編集・構成」あるいは「企画・構成」のようなクレジットで名前が入るものだとばかり思っていた。共著になることを知ったのは、表紙の見本が上がってきた12月3日の時点だ。その前に、前書きやプロフィルを書くように言われた時点で、気がついてしかるべきだったのかもしれないが、まったく予期していなかったもので……。

 この前書きも、てっきり麻田さんが書くものだとばかり思っていたら、「最初に客観的に麻田さんを紹介する文章がほしいから」ということで、急遽お鉢が回ってきた。お断りする理由もないので、ありがたく引き受けさせていただいたけれど、それなりに恐縮はしている。

 そんなわけで、共著になった理由は、結局よくわかっていないのだが、麻田さんをはじめとする関係者の皆様に気を使っていただいた結果ではないかと解釈している。ただひたすらにありがたい。

 結局、私の中では、ゴーストライター→編集者→著者と、三段跳びのステップアップがあったことになるが、多くの読者にとってはどうでもいい話のようにも思う。そんな些末なことより、麻田さんの本が出たという事実のほうが重要であるに違いない。

 トムス・キャビンのコンサートにはずいぶお世話になってきたから、この本を作る過程はとても楽しいものになった(たいへんなことも多かったけれど)。願わくは、この本を読んだ皆さんとも、この楽しさをわかちあえますように。

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