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2019年3月 4日 (月)

『聴かずに死ねるか!』蛇足的な注釈

 何を書くかよりも何を書かないかが重要--というのは、文筆の基本だと思っている。幹ばかりで枝葉のない文章もつまらないけれど、かといって枝葉ばかり伸びすぎると、肝心の幹が見えなくなってしまう。どの枝を伸ばしてどの枝を剪定するかが腕の見せどころなのではないか。

 『聴かずに死ねるか!』(リットーミュージック)は麻田さんとの共著だったため、必ずしもこの理想どおりにはいかなかったけれど、それでもそれなりに剪定はしてある。そのまま埋もれさせるのがもったいないような気もしてきたので(ん?)、あらためてここでご紹介しよう。注釈風にまとめてみたので、興味のある方は本を参照しながらお読みください。

●1章

グレン・グリーン・シンガーズ(P.22)

 「sing-out '65」で、麻田さんといっしょにツアーをした女性フォーク・グループ。このメンバーの一人に、後に大女優となったグレン・クローズがいた。グレン・クローズと言えば、映画『危険な情事』の恐ろしい演技が忘れられない。夢に見そうなコワい顔でグイグイと……。「sing-out '65」の当時は18歳くらいで、まだ世の男性諸氏を震え上がらせてはいなかったはずだが。

●2章

オールド・タウン・スクール・オブ・フォーク・ミュージック(P.31)

 麻田さんと岩沢幸矢さんがシカゴで通ったというギター・スクール。スティーブ・グッドマンやジョン・プラインもここでギターの弾き方を学んだそうなので、麻田さんたちも同窓生ということになる。

ジョン・ハモンド(P.41)

 グリニッチ・ビレッジで知り合ったブルース・シンガー。本文にもあるように、ジミ・ヘンドリックスやロビー・ロバートソンをギタリストに起用したこともある。ブルースの大御所、ジョン・リー・フッカーとも親しかったようだ。父親は、著名な音楽プロデューサーのジョン・ハモンド・ジュニアだという。

イージー・ヤング(P.41)

 フォークロア・センターを経営していたイージー・ヤングは、グリニッチ・ビレッジの顔役の一人で、麻田さんの前には、ニューヨークに出てきたばかりのボブ・ディランもお世話になっていたようだ。麻田さん曰く「イージー・ヤングは、当時もうディランのことをよく言ってなくて、ティム・バックレーを一生懸命推していた」とか。

●3章

ジャクソン・ブラウン(P.50)

 シカゴのライブで、最後にスティーブ・グッドマンもまじえて演奏した曲は、「Sweet Little Sixteen」の可能性が高いのではないか? 初期のリンドレーとのデュオ・ライブの音源を聴くと、オールディーズ・メドレーといった趣向で、この曲や「悲しき街角(Runaway)」などを一度に演奏していたりする。

ピート・ドレイク(P.52)

 72年のナッシュビル・レコーディングの際のペダル・スティール奏者。ロック・ギターでおなじみのトーキング・モジュレーターという特殊なエフェクタを考案したことでも知られる。このエフェクタを駆使したトーキング・スティールは、ドレイクの代名詞でもあった。

本田路津子(P.54)

 和製ジョーン・バエズとも称された美声の女性フォーク・シンガー。NHKテレビなどへの出演も多く、ウディ・ガスリーやディランの流れを汲む反体制的なフォーク・シンガー勢とは一線を画していた。麻田さんと同じ事務所に属し、いっしょにツアーを回ることも多く、かの有名な71年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーにもそろって出演している。

ベッツィ&クリス(P.56)

 日本で活躍したアメリカの女性フォーク・デュオ。最大のヒット曲「白い色は恋人の色」は、北山修作詞、加藤和彦作曲。麻田さんはこのデュオの司会兼オープニング・アクトを務めただけでなく、楽曲も提供していた。ソロ・アルバムに収めた「僕の中の君」も、もともとはベッツィ&クリスのために書いた曲だという。

●4章

デビッド・グリスマン・クインテット(P.63)

 本文にもあるとおり、76年の来日時にまだアルバムは出ていなかったけれど、グリスマンのソロ・アルバム『THE DAVID GRISMAN ROUNDER ALBUM』のレコーディングは、すでに完了していた。このアルバムは、来日メンバーのビル・キースも参加した、プレDGQとでも言うべき作品である(バイオリンはリチャード・グリーンではなくてバッサー・クレメンツ)。トリオレコードから出た日本盤は、日本ツアー直後の76年5月25日のリリースとなった。

ピート・グラント(P.79)

 ガイ・クラークのツアーに参加したピート・グラントは、カリフォルニアのセッションマン。エモンズのペダル・スティール・ギター(12弦ダブル・ネック)と、パーム・ペダルを3本付けた10弦ドブロをたずさえてきた。ちなみにガイ・クラークもカリフォルニアのドブロの工場で働いていた経験があり、ギターのリペアマンとしての実績もある。

アーレン・ロス(P.81)

 マッド・エイカーズの一員としてやってきたアーレン・ロスは、このときが初来日だったはず。ペダル・スティール・リックを駆使した、ユニークなギター奏法は日本でも話題となった。マッド・エイカーズの中心メンバーだったハッピー&アーティ・トラウムのアルバム『HARD TIMES IN THE COUNTRY』(Rounder 1975)でもロスのギターが大きくフィーチャーされており、その関係もあってツアーに参加することになったと思われる。

●5章

ローリング・ココナツ・レビュー(P.88)

 私の記憶する限りでは、開催当時の紹介文の表記は、みな「ココナッツ」だったはずだが、本書ではレイアウト校正の段階ですべて「ココナツ」に改められた。理由は定かではないが、2018年に初めて製品化された同コンサートのCDボックスのタイトルが『ローリング・ココナツ・レビュー・ジャパン・コンサート1977』だったことと、何らかの関連があるかもしれない。

Rollingcoconut ローリング・ココナッツの缶バッジ

ピーター・ローワン・バンド(P.90)

 バンジョー、ギター、マンドラ、フィドルというブルーグラスとしては異例の編成(なによりもベースが入っていない)になったのは、このイベントのためにメンバーを急遽集めたためだろう。ジョン・ヒックマン、ダン・クレアリーのカリフォルニア・コンビは、ピーター・ローワン、リチャード・グリーンとそれまでプレイした経験はなく、日本で初めて音を合わせたという。ピーター・ローワンのマンドラは、1920年代のモデルだと思われる希少なギブソンH-5だった。ブルーグラスでは通常はマンドリンを使用し、マンドラを弾くことはまずない。

レッド・ホット・ピッカーズ(P.90)

 ローリング・ココナッツ・レビューの翌年に開催されたピーター・ローワンの日本ツアーの際にバック・バンドが必要だということで、ちょうどスケジュールの空いていたニューヨークのラジカルなブルーグラス・ミュージシャン3人がブッキングされた。アンディ・スタットマン(マンドリン)、トニー・トリシュカ(バンジョー)、ロジャー・メイソン(ベース)という、いずれ劣らぬ鬼才たちだ。レッド・ホット・ピッカーズというバンド名は、その際に即席で付けられたその場限りのもの。このトリオも、ピーター・ローワンたちとは初顔合わせだった。フィドルのリチャード・グリーンが特別ゲスト扱いになったのは、キャリア等の格の違いが考慮されたからだろう。

●6章

ジーン・パーソンズ(P.100)

 元バーズで、ストリングベンダーの考案者としても知られるジーン・パーソンズは、カントリー・ガゼットやフライング・ブリトー・ブラザーズで来日が噂されたが、どちらもキャンセルとなった。パーソンズは「クジラを守れ」というステッカーを楽器のケースに張り、日本製品のボイコットも主張するという筋金入りの「エコな人」だったようなので、その信念が多少なりとも影響したのかもしれない。

スクエア(P.115)

 のちのT-スクエア。ユーミンのツアーに参加した当時のメンバーは、安藤正容(ギター)、伊東たけし(サックス、ウィンドシンセ)、久米大作(キーボード)、中村裕二(ベース)、青山純(ドラムス)、仙波清彦(パーカッション)。79年夏のOLIVEツアー、同年冬のマジカル・パンプキン・ツアーで、バックバンドを務めた。パントマイムをさせられたのは、マジカル・パンプキン・ツアーのとき。OLIVEツアーの東京公演では、本物の象も登場したというが……。

●7章

ピチカート・ファイヴ(P.132)

 田島貴男を迎えてレコーディングした最初のアルバムは『BELLISSIMA!』(1988年)。CBSソニー時代は、このあとに『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)と、リミックスによるベスト盤的な『月面軟着陸』(1990年:この頃プレジデント社のPC本の取材でメンバーの高浪慶太郎さんにインタビューをさせられ、何を書いていいのやら戸惑った経験がある^^;)を制作している。田島さんはコロムビア移籍を期にバンドを離れ、オリジナル・ラブに専念。このため、ニューヨークのサイコ・ナイトに出演したときのメンバーは、小西康陽、高浪慶太郎、野宮真貴の3人のはずだ。

●8章

マーク・ベノ(P.148)

 ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルのステージのサポート・ギタリストは奥沢明雄。ずいぶん以前からマーク・ベノの曲をカバーしていたベノ・フリークで、相性は抜群だった。リハーサルでは自作曲のコード進行を忘れていたベノにアドバイスをする一幕もあったとか。奥沢さんは佐野元春のステージでもギターを弾いていたが、こちらは当日のサウンド・チェックの時点で急遽客演が決まったのではないかと想像する。

ジョン・コーワン・バンド(P.148)

 ニュー・グラス・リバイバルでベース、ボーカルを担当していたジョン・コーワンのソロ・ユニット。コーワン以外の来日メンバーは、ノーム・ピクルニー(バンジョー)、シャド・コッブ(フィドル)、ティム・メイ(ギター)。マンドリンのウェイン・ベンソンと、ギターのジェフ・オートリーが日本に来られなくなったため、代わりにギターのティム・メイが急遽来日することになった。マンドリンのない変則のブルーグラス編成ではあったが、メイのパフォーマンスを間近で見られたのは望外の幸運だったかも(インタビューもできたし)。まだ若いノーム・ピクルニーがバンド全体をまとめているように見えたのも印象的だった。その後、ピクルニーはいまをときめくパンチ・ブラザーズに参加することになる。

佐野元春(P.150)

 ホーボー・キング・バンドを従えてのパフォーマンス。佐橋佳幸(ギター)、Kyon(キーボード)、井上富雄(ベース)など、凄腕ぞろいのメンバーだけに、さすがの安定感だった。この日はゲストの形で奥沢明雄も加わり、アコースティック・ギターを弾いた。

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