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2013年2月

2013年2月28日 (木)

モッコウバラの剪定

 ぽかぽかと暖かな園芸日和。時間に余裕ができたこともあり(予定よりも早く9時5時生活が終了したのだ)、延び延びになっていたモッコウバラの剪定をした。ぎりぎり2月のうちになんとか手をつけたという感じ……。

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 3階のベランダは、去年からこのようなジャングル状態になっていた。風通しが悪いどころか、ほとんど向こうに行けないような状態だ^^;

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 この枝を適当に剪定し、残すものは残して手すりのところに誘引する--というのが、本日のミッション。文字にすればこれだけだけれど、いざやってみると、これがなかなかたいへんで……。そもそもきれいに枝ぶりを整えるセンスがないのだよね。

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 2時間ほどかけて、結果はこんな感じ。始めたのが遅かったので、日が暮れてしまった。

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 実は片付いたのは内側だけで、手すりの向こう側はほとんど手付かずのまま残っている^^; 今週中にそっちもなんとかしたいもんだが……。

2013年2月27日 (水)

通院日記(10)

 午後4時から虫歯の治療。「外側を削るだけですから麻酔はいらないと思いますよ」とイケメン先生。ほんまかいなと思ったら、やっぱり痛い^^; 泣きを入れて麻酔を打ってもらう。

 それからガリゴリガリと30分ほど。最後に新しい仮歯をかぶせて一丁上がり。ちょっと見、よさげなできなので、このままでもOKなような気がするが、まあそうはいかんのだろうな。

 1時間ほどの診療時間で、料金は210円。前回もそんなもんだったけど、虫歯の治療って歯石の除去よりずっと安いんだな。ほとんど健康保険でめんどうみてもらえるってことか? ありがたや。もっともホンチャンの歯にはそれなりのお金がかかるはずで、それを考えると憂鬱になる……。

 次回は1ヵ月後の3月27日(水)朝9時半から。また朝早いのか~^^;

2013年2月24日 (日)

18禁な身体測定の夢

 明け方に見た夢。若干ビミョーな内容を含むので、そういう話が苦手な方は、これから先は読まないように^^;

 病院で女医さんに身体測定をしてもらっている。白人風に目鼻立ちのはっきりしたセクシーな女性だ。上腕に定規を当てられたので力こぶを作ったら、「普通にしていてください」とたしなめられる。ぶつぶつ独り言を言いながら定規で右上腕を計測する女医。何度も定規の位置を変えては、目盛りを凝視して測り直している。

 やっと両腕の測定が終わったと思ったら、今度は頬の両側に定規を当てられた。どうやら顔の幅を測るつもりらしい。目盛りを確認しようとする女医の顔が近づいてきた。鼻の先が触れ合う。頬や唇もすぐ近くまで迫ってきた。ナニが大きくなってはまずいと思って懸命にがまんする。「性行為をする前に約束してもらわなければならないことが……」と、なにやら堅い話を始める女医。なんだ、最初からそのつもりだったのかと思ったとたんに、ナニがビョンと立ち上がった^^;

 再び診療室。女医に向かって「先生はきれいな人だし約束は守ります」と誓っている。「それならこれからもつきあっていける」と上機嫌な女医。え! この先まだつきあうことになるのか、とあきれる私。

                      

 10年に一度も見ないようなセクシーな夢を見てしまった。精神分析をされたらいろいろ出てきそうだけれど、正直に見たまま書いてみた。「肝心な場面」が省略されているのは、夢の無意識の自主規制だろうか?

2013年2月23日 (土)

ゼロックス・スーパーカップ

 サッカー・シーズン到来間近。--というわけで、前年度のJリーグ優勝チームと天皇杯優勝チームが激突するプレシーズン・マッチ、FUJI XEROX SUPER CUP 2013を観戦しに、東京・国立競技場まで行ってきた。

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 ……といっても自腹ではなくて、ありがたいことに、招待券をいただいたのだ^^; バックスタンド側上段パノラマシートと、なかなかよい席だった。しかも日差しが暖かく、絶好のサッカー観戦日和。むしろ暑いくらいで、帽子とサングラスを用意していって正解だった。もっとも、後半のちょっと日が翳った時間にはいきなり寒く感じたから、気温はやっぱり低めだったんだろうな。屋根のあるメインスタンド側にいたら、ぶるぶる震えていたかも。

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 さて、肝心の試合だが、Jリーグ・チャンピオンはサンフレッチェ広島。天皇杯覇者は柏レイソル。どちらも好きなタイプのチームなので、なかなか面白かった。

 サンフレッチェは、なんと言ってもキャプテンのフォワード、佐藤寿人さんがキレキレ。決勝ゴールとなった前半30分頃のボレーシュートは圧巻だったし、後半惜しくもキーパーにはばまれたオーバーヘッド・キックも美しかった。この時期からこんなに絶好調で大丈夫なのかと、よけいな心配をしてしまうくらい。--なんて思っていたら、後半15分でいきなり交代。これにはちょっと驚いた。なにかアクシデントがあったのでなければよいのだが……。

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 一方のレイソルは、スタメンが去年とはずいぶん入れ替わった印象ながら、やはりチームの中心は、レアンドロ・ドミンゲスさんとジョルジ・ワグネルさんのブラジル・コンビのようだ。新加入のフォワード、クレオさんについては、もう少し様子を見てみないとなんとも……。

 試合は、佐藤寿人さんの1点を守りきったサンフレッチェの勝利。試合の終わらせ方もなかなか堂に入った感じで、全体に試合をうまくコントロールしていたように感じた。

2013年2月20日 (水)

トーカイのレスポール・コピー

 レスポールの話のあとは、そのほかのギブソン・エレクトリック・ギター--と言いたいところだが、その前にレスポールがらみで、もう1本。

 日本製のレスポール・コピーといえば、グレコ、トーカイあたりが、よく知られている。その中でも、トーカイのLS-200は、人気の58年型(58年~60年製)レスポール・スタンダードのドンズバ・コピーで評価が高い。

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 このLS-200は、たしか御茶ノ水の下倉セカンドハンズあたりで、中古で手に入れたはず。当時はまだプレミアがついておらず、75000円くらいで買ったような記憶がある。

 ペグヘッドには金色に光るTokaiのパール・ロゴと「ラブロック」シリーズのロゴマーク。シリアルナンバーから判断すると81年製か。

 ラブロック・シリーズになって、トラスロッド・カバーがオリジナルとは異なるとがったシェープに変わったのが気に入らず、手持ちのパール製カバーに替えたあとで撮ったのがこの写真。手放す前に元に戻したような記憶もあるが、定かではない(戻していればパールのトラスロッド・カバーが見つかるはずだが……)。

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 このギターの写真は、たぶん1枚しか撮ってない。こちらは同じ写真のボディ部を拡大したもの。写真ではよくわからないが、トップのトラ目はくっきり鮮やかに出ていた。チェリーレッドの赤みも、もう少し強かったような印象がある。思いのほか軽くて、なかなか弾きやすいギターだった。

2013年2月16日 (土)

通院日記(9)

 虫歯の治療2回め。強風に飛ばされそうになりながら歯科病院へ。

 朝の9時半からと予約が決まったときは、ずいぶん早いなとびびったものだが、このところ「9時通勤」が続いていたおかげで、今日はむしろ楽だった。人間慣れるもんである^^;

 虫歯の治療はいよいよ核心に迫ってきた。ずいぶん奥まで削られた感覚だったが、麻酔のおかげで痛みは全然。イケメン先生の手際もなかなかなんだよな。

 最後に仮の被せものをしてもらって、本日の治療は終了。締めて1時間くらい。前回言われていたレントゲン撮影も神経の検査もなかった。検査しなくても大丈夫と判断されたのか? それとも次回に持ち越しか? はたまたたんに忘れられただけか? まあ、いいほうに解釈しておくとしよう^^;

 次回は2月27日(水)午後4時から。ホンチャンのクラウン(--って言うのかな?)の型どりになるはず。クラウンだのインレイだのって、まるで楽器作りの用語みたいね。--というところで、今夜もズキズキきませんように。

2013年2月15日 (金)

歌詞の添削

 明け方に見た夢。

 コミックソングの作詞をして、ビートたけしさんのところに持っていく。わりとよく書けたつもりでいたのだが、実際に公開されたビートたけしさんの歌を聴いたら、ずいぶん歌詞を直されていた。やぱりこっちのほうが面白いな~。さすがだな~と感心する。タイトルは「イイデンキ」に変わっていた。

                       

 前からコミックソングを作りたいと思っているのだが、なかなかよい歌詞が書けない。それが引っかかっていて、こんな夢を見たのかも。夢の中では歌詞がどう変わったか具体的にわかってたような気がしたのに、起きてみたらタイトル以外覚えていない。傑作だったらもったいないけど、まあ、そんなこともないか……?

2013年2月13日 (水)

レスポール序章(後編)

 テッド・マッカーティがレス・ポールのところへ持参したギターはどのようなものだったのか? 本人の証言を聞いてみよう。

 「最初はメイプルで試作したが、サステインが長すぎるギターができてしまった。ボディが固くなるほど弦の振動も長くなるからね。これではまずいということで、マホガニーにメイプルのトップを付けることを思いついた」「ボディも小さめにした。そしてトップにカーブを付けたのは、なんといってもレオ・フェンダーがカービング・マシンを持っていなかったからだ」[2]

 もちろんアーチトップはギブソンの伝統でもあったのだが、フェンダーには製造不可能な削り出しの技法を用い、差別化を図ろうとしたという説明が面白い。

 ウォルター・カーター著の[4]にも、オール・メイプル・ボディの弱点に関するマッカーティの発言が引用されている。「重すぎる上にサスティンが長すぎて--静かにさせておくことができなかったんだ」

 おそらくフィードバック・コントロールができない(ハウリング)状態になったという意味だろう。マホガニーとメイプルの組み合わせにすることで、このサスティンを抑えたばかりではなく、ボディの重量も軽くすることができた。まさに一石二鳥の名案だったわけだ。

 マッカーティがレス・ポールの山荘に持ち込んだギターは、このマホガニー・ボディに削り出しのメイプルトップを貼り付けた試作品だったと思われる。フィニッシュはサンバースト。そして通常のギブソン製ブランコ(トラピーズ)・テールピースが取り付けられていた[4]。

 一方、レス・ポールの記憶はマッカーティとは異なるようだ。「私は、そのギターについて、かなり大幅な要求をした。つまり、カーブドメイプル・トップのソリッドで、トラピーズ・テールピースであることが最低条件だったんだよ」[1]

 この部分は誤訳の可能性を疑いたくなるほどだ。メイプル・トップのソリッド・ボディ&ブランコ・テールピースの試作ギターをたたき台に、レス・ポールがいろいろアイデアを加えていったと考えるほうが、個人的にはすんなり腑に落ちるのだが、レス・ポールはそれを許さない。

 「色、デザイン、スケール、バインディング、弦のタイプ、コイルの巻き数、マグネット、それにエレクトロニクス…。ほとんどそう(私のアドバイス)さ。私が問題にしていたのは、とにかくサステインだった。それでメイプルを使うことにしたんだ。それに、ブリッジをスチール製にするというのも私の提案だったね。それまで、ブリッジは木製というのが常識だったんだ。だから、メタルのナットにスチールのブリッジ、ブリッジの埋め込み溝は大きくという提案をしても、なかなか分ってもらえなかった」[1]

 レス・ポールの話を信用すれば、新しいギターはほとんどレス・ポールが設計したことになってしまう。はたして、どこまで信じていいものか?

 再びテッド・マッカーティの93年の証言。
 「レスポールを1人でデザインした人間というのはいないんだ。私はボディ・シェープとトップの張り合わせ構造に関わったし、うちのエンジニアはピックアップに貢献した。それから我々(レス・ポールとマッカーティ)はおちあって、試作品について検討した。基本的に我々は、それがギブソンにふさわしい楽器として製品化されることを望んでいたんだ。たとえばネジ留め式のネックには信頼を置いていなかった。それでしっかりと接着するデザインにした。我々は1年ほどこのプロジェクトに関わった」[4]

 話をわかりやすくするために、ほぼ間違いなくレス・ポールの提案だったと言えそうなところをピックアップしてみよう。オリジナル・レスポールに採用されたブリッジ一体型のブランコ・テールピースは、レス・ポール自身によって出願された特許の図面が残っている(1952年7月9日出願、1956年3月13日認可)。そしてレス・ポールの山荘に持ち込まれた試作品には、ノーマルなギブソン製ブランコ・テールピースが付いていた。[4]には明記されていないものの、おそらく木製のアーチトップ・ギター・スタイルのブリッジも採用されていたと思われる。このブリッジとテールピースを、自らの考案した一体型ブランコ・テールピースに変更することは、レス・ポールの主要な主張の1つだったはずだ。

Tailpiece

 レス・ポールの一体型テールピースは、機能的にはアーチトップ・ギターのブリッジに近い。ボディトップに接着したりネジ留めしたりせずに、弦の張力でボディに固定される仕組みになっている。大きな改良点は、ブリッジを金属製に変えたこと。そしてテールピースと一体化することで、弦をはずしてもブリッジがズレたり、どこかへ行ってしまったりすることがなくなったことだろう。

 この一体型テールピースは、オリジナル・レスポールのほかに、フルアコのES-295やES-225T/TDにも採用された。ES-295とレス・ポールの関わりについては、[3]「THE GIBSON STORY」に書かれていたとおりだ。

 ボディ・カラーがサンバーストからゴールドトップに変わったのもレス・ポールの意向が大きかったのではないかと思われる。

 ウォルター・カーターが引用したレス・ポールの証言。
「ごく初期の頃から、私の頭の中には2つのモデルがあったんだ。1つはゴールド・カラーのモデル。それまで誰もそんなギターを持ってなかったし、ゴールドは常に品質のよさの象徴だから。もう1つはブラック。黒はタキシードのような高級感があるからね」[4]

 テッド・マッカーティはこう付け加える。
「我々はレオ(フェンダー)やそのほかの連中に、メイプルとマホガニーのコンビネーションになっていることを気づかせたくなかったんだ。それで、ピースの継ぎ目がわかりにくいような、特別なカラーリングを施した」[4]

 ゴールド・トップの採用には、メイプルの木目や継ぎ目が見えないようにする思惑もあった--というのは、いかにも当事者ならではの発言だ。いまでは誰でも知っているような事実でも、当時は隠しておきたい企業秘密だったということか。そのわりには、カッタウェイ部のバインディングの不備で、メイプルの地と継ぎ目が少し見えてしまったりしているのが、なんとも……。

 メイプル・トップの採用に関しては、両者の主張が大きく食い違っている。どちらを信用するかの判断は難しい。レス・ポールの説明はインタビューごとに微妙に異なっていたりもするため、個人的には全幅の信頼がおけない印象を持っているとだけ記しておく。

 また、ピックアップやエレクトロニクスに関しては、ギブソンが設計したものにレス・ポールからいろいろ注文をつけた可能性が高いのではないか。

 ともあれ、「あれは私ひとりでやったものだよ」([2]レス・ポール・インタビュー)というレス・ポールの発言は、さすがに言い過ぎだろう。レスポール・モデルはレス・ポールの許可なしには市場に出せない契約になっていた[1]ため、ギブソン側からは強く反論しにくいという事情もあったのかもしれない。このあたりは憶測の域を出ないけれど。

 以上のようなさまざまなデザインの変更は、マッカーティの言うように1年ほどかけて行なわれたと思われる。レス・ポールの山荘での両者の会談では、もっぱらロイヤリティ契約に関する取り決めが主要なテーマとなったようだ。5年契約にして契約が終了した時点でギブソンがロイヤリティを支払う。レス・ポールはギブソン以外の楽器を人前では弾かない[2]。レス・ポールによれば、難航したのはそのギターにギブソンのブランドをつけるかどうかという問題だった。

 「当時のギブソンは、ソリッド・ギターに対して、まだ半信半疑の状態だったよ。なにしろ、そのソリッド・ギターにギブソンの名前をつけるべきかさえ迷っていたんだ。どうしたらいいのだろう?って尋ねてきたよ。だから私は『どうして、レス・ポール・ギターってネーミングしないんだ?』って聞き返した。『これで契約が成立した』と彼(マッカーティ)は言ったよ」[1]

 レスポールというモデル名は、ソリッド・ギターに参入することにまだ抵抗のあったギブソンの立場と、自らの名前を冠したギターをギブソンから販売したいというレス・ポールの思惑が一致した結果生まれたものだったと言えるかもしれない。

 レス・ポールとギブソンの契約は、5年の期間終了後、さらに4年間延長された[2]。スタンダード以外のラインアップ--SGレスポールはもちろん、カスタム、ジュニア、スペシャルなどの設計には、レス・ポールは関与していないという[1]。

 ブラック・カラーのレスポール・カスタムに関するレス・ポールの評。
「ギブソンが勝手に作ったのさ。おまけにネックにはバインディングまでつけてね。…私が最初にオーダーして作ってもらったギターのネックにバインディングなんてなかった。だから、あのギターを初めて見た時、『そんなもの取ってしまえ。』って言ったぐらいさ。つまり、バインディングのあるないは、サウンド的には影響ないが、演奏するときには確かに問題があるんだ。弾きづらいんだね。でも彼らは『ユーザーが気に入ってるもので…。』って言った。『じゃ好きなようにしたら?』ってわけさ」[1]

 レス・ポールとギブソンの契約が切れたため、レスポールの製造は60年代に一時中断する。生産が再開されるのは68年頃のことだ。再契約が決まった70年代以降、レス・ポールが生涯を通じて愛用したのは、ロー・インピーダンス・ピックアップの付いたレスポール・レコーディングだった。

2013年2月10日 (日)

レスポール序章(前編)

 レスポールについて、もう少しだけ。最後にレスポールの誕生の経緯を、あらためて探ってみたい。

 ご存知の方も多いと思うが、ギブソン・レスポール・モデルは、当時絶頂を極めていた革新的なギタリスト、レス・ポール(レスター・ウィリアム・ポールファス)のミュージシャン・モデルだ。このギターにレス・ポール本人のアイデアが活かされているのは間違いないとして、その貢献がどれほどのものだったのかは、諸説紛々の観がある。

 その真相を知りたければ、やはり1次ソースに当たるのが定石だろう。レス・ポールのロング・インタビューが掲載された[1]「ザ・レスポール」(プレイヤー・コーポレーション 1981)は、中でも重要な資料といえる。

Lespaulmag

 もう一方の当事者であるギブソン社、とりわけ当時の最高責任者だったテッド(セオドア)・マッカーティの証言は、[2]「ザ・ギブソン」(リットーミュージック 1992)のテッド・マッカーティ・インタビューに詳しい。これにギブソン社のジュリアス・ベンソンが著わした社史[3]「THE GIBSON STORY」(1973)、ウォルター・カーターの大著[4]「GIBSON GUITARS 100 YEARS OF AN AMERICAN ICON」(Gibson Guitar Corp. 1994)などの記述を加えて、適宜補っていくことにしよう。

Thegibson

 まずレス・ポールが初めてギブソン社にコンタクトをとった時期だが、これはレス・ポールによれば1941年。自作のソリッド・ギター、ザ・ログをギブソンに売り込みに行ったものの、このときは、けんもほろろの対応をされたという。当時ギブソンを傘下におさめていたCMIの社長M・H・バーリンには、「ピックアップをつけたホウキの柄を売りつけに来た」とまで酷評されたとか[1]。ちなみに、この時点ではまだテッド・マッカーティはギブソンの人間ではない。当時はピアノ・メーカーのウーリッツァー社で働いていたようだ[2]。

 2度めのコンタクトは47年。レオ・フェンダーのソリッド・ボディ・エレクトリック・ギターに驚いたギブソンが、レス・ポールのところへやってきたという[1]。この時点でも、まだテッド・マッカーティは入社していないはずだから、訪ねてきたとしたら別人ということになる。

 実際に交渉が成立したのは50年。このときはテッド・マッカーティが、レス・ポールの住む山荘を訪れて、契約をまとめた[1][2]。

 一方、「3」「THE GIBSON STORY」にレス・ポールの名前が初めて登場するのは、51年。「初めてのオール・ゴールド・フィニッシュのエレクトリック・ギター(ES-295の前身)が、レス・ポールから障害のあるギタリストへ手渡された」という、前後の脈絡のない記述が唐突に出てくる。

 ES-295は、オリジナル・レスポールとよく似た仕様を持つ(レスポールのパイロット版と言ってもいい)エレクトリック・アーチトップ・ギターだった。この事実を踏まえつつ、当時のギブソン社とレス・ポールの良好な関係を示すエピソード、ということで挿入されたのだろうか?

 なお、レス・ポールは48年1月に自動車事故を起こし、右腕を損傷している。このケガは、一時はギタリスト生命を奪われるかと思われたほどのものだったが、1年半かけてリハビリに成功。51年の時点では完全復帰していたはずだ。

 --というところで、ここまでの経過を年譜にまとめてみよう。

1941
 レス・ポール、自作のソリッドボディ・エレクトリック・ギターを持ってギブソンを訪ねるも、交渉決裂(レス・ポール談)

1947
 ポール・ビグスビー、マール・トラビスのためにソリッドボディ・エレクトリック・ギターを製作

 ギブソンとの交渉再開(レス・ポール談)

1948
 レス・ポール、自動車事故(1月)

 レオ・フェンダー、テレキャスターの製作を開始(「ザ・テレキャスター&アザー・ギターズ」リットーミュージック)

 テッド・マッカーティ、ギブソンに入社

1950
 フェンダー・エスクァイヤー発売(4月)

 フェンダー・ブロードキャスター(後のテレキャスター)発売(10月)

 ギブソン・ソリッドボディ・ギターの原型が作られる

 ギブソンのテッド・マッカーティがレス・ポールの山荘を訪ねる。契約締結

1951
 ES-295のプロトタイプが登場

1952
 レスポール発売

 50年のレス・ポールとテッド・マッカーティの交渉以降は、両者の証言がほぼ一致しているため、まず問題はないだろう。気になるのは47年の交渉再開のくだりだ。この交渉は自動車事故以前のことだったとレス・ポール自身は語っている[1]。だとすれば、交渉の時期は47年で間違いないと思われる。引っかかるのは、「レオ・フェンダーが例のギターを発表して、慌ててギブソンが私のところへやってきたんだ」[1]という証言だ。

 レオ・フェンダーが47年以前に「例のギターを発表」したというのは、いささか時期が早すぎるような気がする。もしかしたら、この証言はレス・ポールの勘違いで、ギブソンがレス・ポールと再び話し合う気になったのは、ビグスビーのマール・トラビス・モデルの影響かもしれない。

 「レオ・フェンダーは、マール・トラヴィスの持っていたビグスビーのギターをコピーして、本格的な生産に乗り出そうとしていた。これは一大事ということで、我々も生産に乗り出すことにしたんだ」[2]とテッド・マッカーティも語っているように、フェンダーの動きにギブソンが衝撃を受けたのは事実だろうが、それはもう少しあとのことではないか。

 「(ソリッドボディ・ギターの)開発にはかれこれ1年か、それ以上かかった」[2]とも語っていることから、フェンダーの衝撃がギブソンを揺るがしたのは48年のことではないかと推測する。

 そしてやっと完成した試作品のギターを携えて、テッド・マッカーティがレス・ポールの山荘を訪ねたのが50年。--というところで、肝心の50年の会談の検証は、後編へと続く。

2013年2月 5日 (火)

就活騒動

 結局、ズキズキはこなかった(昨日の話の続き)。やれやれだけど、冷たい水を飲むとしみるし、まだ予断は許さんな~。

 それはそれとして、実は今日から9時5時生活を始めた。仕事が減って困っていたので、校正のクチでもないものかと思って探していたら、どっかの派遣サイトからオファーがきたのだ。ほんとは請負い仕事がよかったんだが、派遣社員の仕事ならあるという。その後はあれよあれよという間に話が進んで、先週の木曜日に面接。そのまま話が決まってしまった。おっとっと~。

 2月と3月の2ヵ月間。朝の9時から夕方5時半まで、週4日間勤務で水曜日が休み(でも明日は出だって……)。とにかく、こんなに朝早く起きたのは久しぶりだ。ちゃんと続くかどうか不安。会社員のみなさんって、ほんとにすごいよなぁ^^;

 初日の今日は、原稿整理を2本と、Webサイトの原稿書きを1本。写真の揃ってる分は入稿もしちゃったぞと。久々の編集業務で、覚えなけりゃならないこともいっぱいあって、けっこうたいへんだった^^;

 あ、念のためにことわっておくと、従来のライター稼業もオファーのある限り続けますので、そちらのほうもよろしく。やっぱ自分の本も書きたいし。取材の仕事なども、なんとか時間の都合をつけるようにします。ほんとに。

2013年2月 4日 (月)

通院日記(8)

 久しぶりの歯医者は、いよいよ虫歯の治療。

 かぶせてある金属をはずされて、思いっきり削られる。イケメンの先生いわく「ずいぶん深いですね」

 この奥歯は、前からいろいろ問題あるんだよな~……。前の前の治療(いまの病院ではない)がかなりおそまつだったみたいで、治療したところから悪化して、それがず~っと尾を引いているのだった。いまさら文句の持って行きようがないとはいえ、なんかモヤモヤ。

 帰り際に「あとでズキズキくるようだったら、神経殺さないといけません」と脅される。とほほ。それでなくてもズキズキはかんべんしてほしい。--というわけで、いま戦々恐々としているところ。麻酔の切れる今夜がヤマかねぇ?

 次回の治療は、2月16日(土)午前9時半から。ずいぶん早いな~。

2013年2月 1日 (金)

ギブソン・フラットトップ・ギターの原色大図鑑

 昨年末から年を越してどっぷりと関わっていたムックが届いた。

 『ギブソン・ヴィンテージアコースティックギター・ガイド』(三栄書房)。J-200、J-45、J-50、ハミングバード、ダブ、L-00、LGなど、ギブソン・フラットトップ・ギターの貴重な写真の数々を、年代ごとにズラリと並べた楽しい本だ。表紙でメインの扱いになっているギターがハミングバードなのには、ちょっとびっくりしたけれど、よく考えてみたら斬新な切り口で面白いと言えるかも。

Gibsonvagg

 私は、そのハミングバードとダブ、その他のモデルの解説を担当したほか、使用アーティストの紹介でボブ・ディラン、ジェームス・テイラー、ジャクソン・ブラウン……、さらに70年代の日本のミュージシャンの記事も書かせていただいた。

 ディランさんやジャクソン・ブラウンさんの原稿なんて、私のような7流ライターのところまでなかなか回ってこないから、今回は貴重な体験になったと言えるかも^^; とくにジャクソン・ブラウンさんは、若い頃からず~っと私のアイドルだったので、理屈ぬきにうれしいよ。そういう意味では、ディランⅡや友部さんや、はっぴえんどなどについて書けたのもよかったな。

 ギターのデータや写真以外にも、レコスケくんのマンガが載ってたり、有名アーティストのインタビューがあったり(クラフトマンの早川流吉さんの取材記事まで!)、なかなかに充実した内容のようなので、興味のある方はぜひ立ち読みでも。あ、いや。お買い上げいただいても、もちろんけっこうでありますが。

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